2020年4月10日金曜日

学芸員の解説情報6

「網走監獄の教誨堂」

明治45年に完成した網走監獄の教誨堂について、建築的特徴について解説する前に教誨という制度についてご紹介します。「教誨」という用語は、聞き慣れないかと思いますが、その字義は「教」は「おしえならわせる」「誨」は「おしえさとす」とあり、本来は仏教用語です。そのような意味合いの言葉として監獄の中で初めて明治時代に使われました。我が国における教誨の発祥は石川島人足寄場で部外者が寄場を訪れ心学や論語を説話した史実があり、これを教誨の萌芽とする見方があります。
監獄における本格的な精神的訓話が始められたのは明治5年「監獄則」が制定された年です。名古屋で真言宗大谷派僧侶鵜飼啓譚が、東京で同派箕輪対岳が教誨を行っており、これが我が国における篤志による教誨師の創始とされています。
その後、明治14年に制度化され、監獄職員として教誨師が採用されるようになりました。その後、仏教とキリスト教の宗教対立があり、職員としての教誨師制度から、現在は篤志による教誨となり刑務所所在地にいらっしゃる宗教家の好意により受刑者の希望する宗教の教誨が受けられるようになってきました。
網走監獄の初代教誨師は、明治27年キリスト教誨師、阿部正恒氏が赴任して受刑者の教誨をおこないました。
網走監獄教誨堂