2020年4月30日木曜日

博物館のお仕事

「囚人用の布団干し」

久しぶりに青空が広がった今日 日の光を待ちわびていました。
何故なら 冬期間の雪によって、展示用布団が濡れた状態になっているのとリスが胡桃を布団の中にかくすため、布団が破れていたり汚れているからです。暖かくなる4月はいつも、布団の除菌と布団干しの仕事が待っています。 30枚の布団を運び敲きながら干す作業は一苦労でしたが、日光を浴びて囚人用布団も心持、ふわふわになったような気がしています。囚人用の渋柿色の布団は明治時代に監獄法で定められた色です。中国の囚衣を模倣した色で、浅黄色(水色)の布団は大正末期から昭和初期の日本の監獄独自の色です。
明治時代は、一般人と犯罪者を明確に区別するために、渋柿色すなわち目立つ色を犯罪者の囚衣と布団に使ったのです。これら布団も当時は監獄内で縫製され作られていました。
布団の綿の量も法律で定められていたので、暖かい布団が欲しくて看守さんの目を盗み
綿の量を多くいれたりすると規則違反で懲罰が課せられたそうです。




2020年4月26日日曜日

【お知らせ『二見桜並木と古道をまもりそだてる会』より:本年の桜並木公開は実施しません。】


平成3年より、当会が桜並木敷地所有者である網走刑務所にお願いし桜開花時期に実施していた桜並木の公開は、本年は実施したしません。新型コロナウイルス蔓延防止対策に併せて実施を見送ることとしました。ご理解とご協力お願い申し上げます。
桜並木は網走刑務所敷地内となりますので、許可を得ずに敷地内に侵入することは許されません。ご注意ください。
令和2年4月26日
『二見桜並木と古道をまもりそだてる会』事務局

2020年4月24日金曜日

博物館のお仕事

「農園作業の展示準備」
現在博物館は休館中なのですが、私たち職員は普段通り仕事をしています。
開館した時に、いつもの監獄博物館の状態にするためにたくさん準備があります。
今日は、春の季節に行う展示作業について紹介します。
網走刑務所は日本一の耕作面積を有する農園刑務所です。それは明治29年から現在まで変わっていません。網走刑務所二見ケ岡農場の受刑者は、農作業に和牛の飼育と毎日作業にいそしんでいます。そんな様子を博物館でも野外展示で演出しています。春から秋まで皆様にご覧頂いている農園作業の展示人形を冬が来る前にしまっていますので、今日その人形たちと農耕馬を学芸員と管理チームで展示しました。お馬さんのバランスを取るのに大変苦労しましたがなんとか上手く展示できました。5月には、この囚人人形の前に緑肥ひまわりの種を播きます。7月にはひまわり畑の中のリアルナ人形が皆様の目を楽しませてくれるはずです。是非、コロナウイルスが終息した際いには博物館に来て確かめて下さい。



2020年4月17日金曜日

【緊急のお知らせ:新型コロナウイルス蔓延防止対策としての博物館網走監獄の臨時閉館について 2020.4.17】


4月16日、政府より新型コロナウイルス特別措置法に基づいて緊急事態宣言が全国に発令されたことに併せて、博物館網走監獄の臨時閉館を実施することといたしました。
期間は、4月18日土曜日から5月6日水曜日までとします。
急なお知らせとなりましたが、これ以上のウイルス蔓延防止に協力するため、閉館を決定いたしました。
ご理解とご協力よろしくお願い申し上げます。


博物館網走監獄に隣接している『監獄食堂』も同期間、休業といたします。
同じく博物館に隣接するテナント売店「吉村みやげ店」「観光サービス」「マリン北海道:網走監獄店」の3店舗も、同期間北海道による休業要請に協力し休業することとなりました。
併せてお知らせいたします。
なおこの期間、博物館施設を閉鎖しますが、事務局は通常の時間(9:00~17:00)業務を行いますのでご連絡は、公益財団法人網走監獄保存財団事務局:電話0152-45-2411番までお願いいたします。

2020年4月14日火曜日

学芸員の解説情報7

「網走監獄教誨堂」
前回は教誨の起源について解説しましたので、今回は教誨堂の建築についての情報です。
明治42年8月26日に司法省金子馨技師が設計し、明治45年3月19日に落成した教誨堂は、広島県の藤原熊吉棟梁と群馬県の町田里平棟梁による落成棟札が残されています。網走監獄の建造物の中でも教誨堂は最もデザイン性に優れている建物ですので、当博物館に移築するさいに棟札が発見されました。軒先を大きく反った入母屋瓦葺き屋根、大棟の鬼瓦、妻を飾る懸魚(火から木造建造物を護る意味)などの和風の意匠と下見板張りの外壁や半円アーチのペデイメントを付けた飾り笠木を持つ欄間付き上げ下げ窓の洋風意匠とが併存しつつ調和する和洋折衷の建築です。内部は、正面に床面から730mm高くして講壇を置き、講壇上には須弥壇を構え、左右の前室入口に尖頭アーチ形の欄間付ドアを建て込んでいます。左右の壁には縦長洋風押上窓を設けています。5,165m高の天井には植物文様の天井中心飾りが吊り下げられ、大きな一室空間を引き締める重要な要素となっています。
大工作業の人工として働いた受刑者たちは、「神仏の魂が宿る場所だから」と精魂こめて作ったと言い伝えられている網走監獄教誨堂は、実に美しい建築美を醸し出しています。
教誨堂内部


2020年4月12日日曜日

【お知らせ:博物館網走監獄5月からの開館時間について】



博物館網走監獄の5月、6月の開館時間についてお知らせします。
例年、5月1日より9月30日までを「夏季開館時間」として、午前8時30分開館、午後6時閉館とし開館時間の延長を行ってまいりました。
しかし、本年は現在国内で発生状態が続いている新型コロナウイルス蔓延防止対策として博物館施設内の衛生対策を行う必要があり、万全な衛生体制を維持するためには開館時間の延長が困難であるという結論に達しました。
そこで本年に限り、5月からの開館時間延長を行わず、開館時間午前9時、閉館時間午後5時(最終入館締め切りは閉館時間の1時間前)の開館体制を6月30日まで維持継続することとします。
7月からの開館時間については6月中旬時点で判断をする予定としています。
ご理解、ご協力よろしくお願い申し上げます。
令和2年(2020年)4月13日
公益財団法人網走監獄保存財団/博物館網走監獄

2020年4月10日金曜日

学芸員の解説情報6

「網走監獄の教誨堂」

明治45年に完成した網走監獄の教誨堂について、建築的特徴について解説する前に教誨という制度についてご紹介します。「教誨」という用語は、聞き慣れないかと思いますが、その字義は「教」は「おしえならわせる」「誨」は「おしえさとす」とあり、本来は仏教用語です。そのような意味合いの言葉として監獄の中で初めて明治時代に使われました。我が国における教誨の発祥は石川島人足寄場で部外者が寄場を訪れ心学や論語を説話した史実があり、これを教誨の萌芽とする見方があります。
監獄における本格的な精神的訓話が始められたのは明治5年「監獄則」が制定された年です。名古屋で真言宗大谷派僧侶鵜飼啓譚が、東京で同派箕輪対岳が教誨を行っており、これが我が国における篤志による教誨師の創始とされています。
その後、明治14年に制度化され、監獄職員として教誨師が採用されるようになりました。その後、仏教とキリスト教の宗教対立があり、職員としての教誨師制度から、現在は篤志による教誨となり刑務所所在地にいらっしゃる宗教家の好意により受刑者の希望する宗教の教誨が受けられるようになってきました。
網走監獄の初代教誨師は、明治27年キリスト教誨師、阿部正恒氏が赴任して受刑者の教誨をおこないました。
網走監獄教誨堂


2020年4月4日土曜日

学芸員の解説情報5

網走監獄煉瓦の正門

前回に引き続き煉瓦建築について、今回は正門をご紹介します。
網走監獄の正門が木造か現在の煉瓦製になったのは大正時代です。網走監獄正門は大正8年から取り掛かり150万枚の煉瓦を焼き、1080mの長さで監獄施設を囲み完成したのは大正13年です。

開設から3代目の正門になります。
実に5年の年月をかけて築き上げたのです。監獄建築には機能性と管理側の思想が反映されていると言われています。正門は市民が一番先に目にする監獄建築です。その上で正門が具現化しているものは権威と象徴でした。

機能的には外部からの侵入攻撃を守るという意味から頑丈に造られています。また管理的には囚人が逃走できないように正門や塀の高さは監獄法で決められています。網走監獄の門と塀は4.5mの高さがあります。成人の肩にもう一人が乗ったとしても乗り越えられない高さが4.5mとの判断なようです。

デザイン性においては、建築家後藤慶二が大正4年に設計した「旧豊多摩監獄正門」と類似します。後藤慶二は、司法省の営繕技師建築家で、明治時代に活躍した山下啓次郎氏の後輩として大正期の監獄を設計しました。彼の装飾性の排除や合理的設計手法の導入などが積極的に獄舎設計に向けられ、豊多摩監獄の正門は、将棋駒型表門と称される屋根の形状が網走監獄煉瓦の正門と類似してるといっても過言ではないでしょう。高名な建築家のデザインを網走の担当技官も模倣したのではないでしょうか。
画像解説
上部の豊多摩監獄正門と類似しています。この正門の屋根の形態はキャンブレル形式といって二面切妻二段勾配屋根になっています。18世紀に英国や欧州から米国に伝承したものを取り入れて後藤がデザインしたものです。明治期の表現主義から昭和の合理主義建築への移行過程にある姿を示した事例として明治と昭和を結ぶ大正建築として希少な監獄建築です。

2020年4月3日金曜日

学芸員の解説情報4

網走監獄煉瓦造り独居房
(懲罰房)

博物館の中には煉瓦の建物が6棟あります。明治の監獄建築を25棟移築復原再現している博物館の中に6棟の煉瓦建築があります。

なぜでしょうか?

実は、明治時代の監獄は西欧の監獄を模倣し煉瓦の製造を囚人たちに指導し、監獄の中で煉瓦を焼いていました。焼き上げた煉瓦は囚人作業により積み上げ、監獄の塀、獄舎、独居房など多用しました。従来の監獄建造物は木造で火災に弱いので煉瓦建築を導入することで火災から囚人を守る意味もありました。

網走監獄では、明治27年に煉瓦製造を始めています。ここに紹介する独居房は明治45年に完成し昭和の初めまで使用された懲罰専用の独房で登録有形文化財に登録されています。独居房には窓がなく、扉は二重、しかも煉瓦壁の厚さ40センチと暗く圧迫感と閉塞感を感じさせる独居房ですが、屋根は瓦を葺いています。いかにも和洋折衷です。囚人たちにとっては恐怖を感じる建物でした。規則違反者を独居房に入れ反省させる房ですので泣き叫んでも暴れても囚人の声は外に漏れないのです。

懲罰専用の煉瓦造り独居房が残されているのは網走監獄だけです。