この二、三日で館内の樹木もかなり落葉が進み・・・・
こちら庁舎裏側のカツラの木です。スッポンポン状態。
アレッ!?何か木に付いてる・・・・・
スズメバチの巣でした。
もう下のほうが壊れていますが(ミヤマカケスが突っついたかな?)、多分直径30センチぐらいはあったはず・・・
お客様がそばを通らないところでよかったぁ・・(-_-;)
2009年10月31日土曜日
2009年10月30日金曜日
にお積み・・
2009年10月29日木曜日
お知らせ?
ご無沙汰しておりました。お寒うなりましたね、五寸釘の寅吉でございます。
10月末とはいえ、この網走という街、いつ雪が降り出してもおかしくない時候でございます。
さて、どうも職員の方のお話によると、このたびの資料館展示改修で二階の一角に『五寸釘寅吉が語る網走監獄』というコーナーが作っていただけることになったとか。
いやいやお恥ずかしい限りではございますが、わたくし、ずいぶんと長い間、塀の内側から網走監獄の歴史を垣間見ております。明治末期の大火で監獄の建物が殆ど焼け落ちたときも逃げ出すこともなく、その後の再建の一部始終を、そして監獄が刑務所と名前を変えた時世に出所になるまで二十年以上も。
ということは、わたくし、ついに建物の中に入れてもらえる日が近づいた?ありがたいことです。
平成元年にこの博物館網走監獄のレンガ門前に立ちはじめて以来二十数年。やっと暖かいところに移動できるのか。
ありがとうございました。
す、すいません(-_-;)寅吉さん、資料館の中のコーナーは、どうもあなたのCGが語ることになっているらしくて・・・
2009年10月28日水曜日
2009年10月27日火曜日
最高の秋・・・
2009年10月26日月曜日
夜業・・・
まわりも暗くってなにやってるかわからないですよね・・・
10/23、午後10時過ぎです。
資料館改修に伴う電気工事の最中であります。 何ができるわけでもありませんが立会い中・・(-_-;)
今回の改修で大幅に資料館への給電量が足りなくなることが判明、受電設備の改修工事をすることになりました。
ということは、当然停電作業。
閉館後しかできませんので午後6時30分スタートでした。
「一旦、家帰っても良いですけど、通電のときに確認作業があるのでそのころに・・」と業者さんに頼まれ・・
何時ごろって聞いたら「午後8時半目標なので・・・・」といわれて・・・・
それなのに今、午後10時・・・(-_-;)
わかります、慎重に作業を進められてるんですから、ええ、理解できますとも。
でも・・・気温は10度以下・・2時間ほど外に立っています・・・建物に入って暖を取ろうにも全館停電中・・・
あっ、そうだ!自販機で温かい飲み物を!と・・・自販機も電気で動いているんでしたね・・・ (-_-;)ううっ
午後10時30分、無事作業終了、全館電気開通!うれしかったです・・・
10/23、午後10時過ぎです。
資料館改修に伴う電気工事の最中であります。 何ができるわけでもありませんが立会い中・・(-_-;)
今回の改修で大幅に資料館への給電量が足りなくなることが判明、受電設備の改修工事をすることになりました。
ということは、当然停電作業。
閉館後しかできませんので午後6時30分スタートでした。
「一旦、家帰っても良いですけど、通電のときに確認作業があるのでそのころに・・」と業者さんに頼まれ・・
何時ごろって聞いたら「午後8時半目標なので・・・・」といわれて・・・・
それなのに今、午後10時・・・(-_-;)
わかります、慎重に作業を進められてるんですから、ええ、理解できますとも。
でも・・・気温は10度以下・・2時間ほど外に立っています・・・建物に入って暖を取ろうにも全館停電中・・・
あっ、そうだ!自販機で温かい飲み物を!と・・・自販機も電気で動いているんでしたね・・・ (-_-;)ううっ
午後10時30分、無事作業終了、全館電気開通!うれしかったです・・・
2009年10月25日日曜日
ジャンプ!
「だめだ、だめだ、どうせぼくがさがしたってたからものはみつからないんだ!」
「あきらめないでさがしなさいよお!」
今回は、例年にも増しておちびさんたちが多い。(網走市内の小中学校、インフルが猛威を振るってるせいかな・・)
周りのご両親たちもデジカメにビデオ撮影、大忙し。
お母さんたちは、どれだけこども達が汚れちゃうかも心配そう・・・
恒例の『どんぐり工作教室」も開催。
ここで、大活躍は、おじいちゃんとお父さん。
僕も、ジャーンプ!
また、来年遊びに来てね!
「あきらめないでさがしなさいよお!」
「ほっといてくれよ、ぼくはこんなおちばなんてだーいきらいだっ!」
「あきらめちゃだめだよー、さがせばみつかるんだからー」
「なにいってるのさ、ほんとは、さいしょからたからものなんて・・・・・あれ?なにかぼくのてにさわった?」
10/24、『落ち葉のプール』大盛況でした。「あきらめちゃだめだよー、さがせばみつかるんだからー」
「なにいってるのさ、ほんとは、さいしょからたからものなんて・・・・・あれ?なにかぼくのてにさわった?」
今回は、例年にも増しておちびさんたちが多い。(網走市内の小中学校、インフルが猛威を振るってるせいかな・・)
周りのご両親たちもデジカメにビデオ撮影、大忙し。
お母さんたちは、どれだけこども達が汚れちゃうかも心配そう・・・
恒例の『どんぐり工作教室」も開催。
ここで、大活躍は、おじいちゃんとお父さん。
渋い選択ですね、でもちょっと難易度高めなので無理だと思うよ、おじさんは。
しかし、こども達の興味は、どんぐりにあらず・・(残念ですが)
終わったら、もう一回落ち葉のプールに入っていいよって言ったら・・・
それっ、ジャーンプ!しかし、こども達の興味は、どんぐりにあらず・・(残念ですが)
終わったら、もう一回落ち葉のプールに入っていいよって言ったら・・・
僕も、ジャーンプ!
また、来年遊びに来てね!
2009年10月24日土曜日
取材。懐かしいお顔が・・
2009年10月23日金曜日
アンキョ③
ゴワワワーッ!! 暗渠、いよいよ埋め戻し作業へ。
ちなみに、以下2枚の写真が10月初旬、大曲湖畔園地での葦採取風景。(スイマセン、(-_-;)はこの日、都合で不参加、写真は網走市観光課提供、ありがとうございました)
ここは、もと網走刑務所の湖畔農場と呼ばれていた場所。
きっと、水はけの改善作業にこうして葦を採取して使っていたんだろうなあ。 ということで、再び、当館の農場に戻り・・
これで暗渠排水工事はほぼ終了、暗渠用の管以外は地元の素材利用で済みました。
ちなみに、以下2枚の写真が10月初旬、大曲湖畔園地での葦採取風景。(スイマセン、(-_-;)はこの日、都合で不参加、写真は網走市観光課提供、ありがとうございました)
外ごと隊KさんとSさんの二人に行ってきてもらいました。
湿地の中なので大変な作業だったらしい。ここは、もと網走刑務所の湖畔農場と呼ばれていた場所。
きっと、水はけの改善作業にこうして葦を採取して使っていたんだろうなあ。 ということで、再び、当館の農場に戻り・・
これで暗渠排水工事はほぼ終了、暗渠用の管以外は地元の素材利用で済みました。
暗渠管の出口からは、チョロチョロと水が流れ始めています。
このあと、Kさんが畑を全面起こし直して今回の作業は終了です。(この作業にあの青い奴が登場予定・・)
来年の収穫が楽しみですね。
2009年10月22日木曜日
森が一番美しい時期・・
「ニポポの森」が一番美しい時期、多分、それは、今だったりするんじゃないだろうか。
10/24,10/25のニポポの森イベントの関係で、森に入ることが多い昨今、そう感じることが多いです。
10/24,10/25のニポポの森イベントの関係で、森に入ることが多い昨今、そう感じることが多いです。
詳しくは、『ニポポの森ブログ』からどうぞ。
2009年10月21日水曜日
2009年10月20日火曜日
アンキョ②
体験農園の畑、排水性を高めるための『暗渠排水』を設置する作業が続いています。 (前回までの作業は「アンキョ?」で)
今回は自分たちで作業を進めていますが、それが可能になったのは外ごと隊のKさんが農地開発関連のお仕事をしていた人だったから。 経験者じゃないと無理ですよね。
Kさんに計画を作ってもらい必要な資材をリスト化してもらいました。 入手は(-_-;)担当。
『給水管(有孔) 4m×13本』 これが暗渠管ですね、穴の開いたパイプってことでしょ、これぐらいは理解できます。
しかし。
『ホタテ貝殻 4.62㎥、葦(ヨシ) 7束』 ええっ、貝殻に葦? 一体なんに使うのか?しかも単位は小数点第二位。 (葦、既に上の写真で使ってますが・・)
とにかく言われた材料を手に入れなくては仕事が進まない。
地元の水産加工会社に協力していただき、ホタテ貝殻を入手。(貝殻は本来、産業廃棄物としての処理になるものです。今回は特別に分けてもらいました。)
葦、ここはかなり広い敷地の博物館ですが生えてそうで生えてないです。思いついたのは網走湖畔。
確かヨシが生えている。しかも相当な量。
しかし、このあたりは国定公園内です。採取に問題はないのか。
調べたところ、ヨシは採取に制限のある植物じゃないことが判明。
そこで、ヨシが群生している網走刑務所の湖畔農場跡地、現在は網走市が『大曲湖畔園地』として整備計画が進めている場所での採取を計画。
網走市からも、快く許可をいただき必要量を入手できました。
Kさん、一体貝殻とヨシ、なんに使うんですか?
「貝殻は疎水材に使います。暗渠管の周囲に排水性のいい材料を入れておくと、排水性が良くなって雨の時に効果があります。ヨシはその上に敷き詰めます。吸出防止材といって植物の根が暗渠管の中に入ってこないようにする効果があるんですよ。」
なるほど。 (-_-;)
ということで、作業開始。
バケット車で貝殻を管を並べた溝に投入。
今回は自分たちで作業を進めていますが、それが可能になったのは外ごと隊のKさんが農地開発関連のお仕事をしていた人だったから。 経験者じゃないと無理ですよね。
Kさんに計画を作ってもらい必要な資材をリスト化してもらいました。 入手は(-_-;)担当。
『給水管(有孔) 4m×13本』 これが暗渠管ですね、穴の開いたパイプってことでしょ、これぐらいは理解できます。
しかし。
『ホタテ貝殻 4.62㎥、葦(ヨシ) 7束』 ええっ、貝殻に葦? 一体なんに使うのか?しかも単位は小数点第二位。 (葦、既に上の写真で使ってますが・・)
とにかく言われた材料を手に入れなくては仕事が進まない。
地元の水産加工会社に協力していただき、ホタテ貝殻を入手。(貝殻は本来、産業廃棄物としての処理になるものです。今回は特別に分けてもらいました。)
葦、ここはかなり広い敷地の博物館ですが生えてそうで生えてないです。思いついたのは網走湖畔。
確かヨシが生えている。しかも相当な量。
しかし、このあたりは国定公園内です。採取に問題はないのか。
調べたところ、ヨシは採取に制限のある植物じゃないことが判明。
そこで、ヨシが群生している網走刑務所の湖畔農場跡地、現在は網走市が『大曲湖畔園地』として整備計画が進めている場所での採取を計画。
網走市からも、快く許可をいただき必要量を入手できました。
Kさん、一体貝殻とヨシ、なんに使うんですか?
「貝殻は疎水材に使います。暗渠管の周囲に排水性のいい材料を入れておくと、排水性が良くなって雨の時に効果があります。ヨシはその上に敷き詰めます。吸出防止材といって植物の根が暗渠管の中に入ってこないようにする効果があるんですよ。」
なるほど。 (-_-;)
ということで、作業開始。
バケット車で貝殻を管を並べた溝に投入。
2009年10月19日月曜日
2009年10月18日日曜日
リニューアル完了!?
2009年10月17日土曜日
アンキョ?
2009年10月16日金曜日
これは・・・
2009年10月15日木曜日
2009年10月14日水曜日
忘れてはいけないこと・・
少し前の話になりますが・・・
8月末、資料館リニューアルの展示取材を目的に網走刑務所敷地内にある「網走監獄墓地」を訪れました。
来年で創設以来120年になる網走刑務所。収監中になくなった収容者や殉職した職員たちを祀っている場所。通常は立ち入りが許可されていない場所です。刑務所側の特別な配慮で今回の取材がかないました。
刑務所本体からもかなり離れた場所ですので静かです。
周りの樹木が大きく育ち、鬱蒼とした空間。
幽玄・・と言う言葉が似合う場所ですね。
私(-_-;)が、ここを訪れるのも十数年ぶり。
若いころ(この博物館に勤めてまだ間もないころ、もう20年以上前か・・(-_-;)シミジミ)この墓地の存在を知り、何とか歴史史跡として保存する手段がないか若いなりにもがいてみた時期もあり・・・感慨深い場所でもあります。
で、写真の二つの大きな塔が、刑務所開設以来の物故受刑者の合葬碑。かつては引き取り手の無かった囚人たちの亡骸がこの手前側に土葬されていたのですが、後に火葬され塔の後ろ側に埋葬されているそうです。
この塔も、敷地内産出の軟石を彫刻し組み上げたもの。大正期の収容者による作業で立てられたものです。
自然と手を合わせたくなる・・・・
そして、私が今回の訪問でもう一度あいたいなと思っていたのが・・・
開設当初の時期に亡くなった(殉職した)職員たちの墓標。
大正時代以降に亡くなった殉職職員の墓標はそれなりの大きさがあるのですが、なぜかこの墓標はとても小さい。
多分、建立はずいぶん後の時期になってからのようです・・・(この墓地ができたのが大正時代ですので・・)
表には亡くなった職員の名前が刻まれています。
別な面には出身地。宮城県、山形県、岩手県など東北出身の士族が多い。
更に別な面には・・・
『北海道集治監網走分監看守奉職中明治廿四年(24年)十月九日死亡 行年廿二才(22才)』
そうです。あきらかにあの道路工事の期間に亡くなった職員。他にも同じ時期になくなったものの墓標がいくつかありました。
釧路から移動途中と思われる明治23年7月に亡くなった職員のものもあります。
そして、私が?と思ったのが亡くなった年齢。21才、23才、21才、24才・・・20代前半の若者たちばかりだったこと・・・
当時、北海道に次々と集治監を設置するため、宮城集治監で職員募集をしたそうです。
年齢から考えると自分たちの親の世代で戊辰戦争(明治維新)があり、旧幕府軍側となった東北列藩。賊軍出身者と扱われ、良い公職につく事がかなわなかった若者たちです。
監獄の看守、「牢役人」は江戸時代、不浄役人と蔑まされた職種です。それでも「役人」、しかも「腰に刀(サーベル)」ですから士族出身者の職として苦渋の選択、未開の荒野・北海道を目指したのでしょうね。
確かに犠牲になったのは囚人たちの方が多いのですが・・・
道路工事の現場で犠牲者が続出した最大の要因は、食糧補給路が伸びすぎたことにより現地の栄養状態が悪化、ビタミンB1が欠乏した糧食を与え続けたことによる脚気の蔓延。これは、囚人、看守ともに変わらない状況でした。
脚気は、育ち盛りの若者のほうが発症が多いとされています。若年職員が多く斃れたのもこれが原因でしょう。
故郷を遠く離れた北海道の山中で満足な医療も与えられず痛み苦しんでなくなっていった多くの若者たち。黒い看守の制服をきたもの、柿色の囚人服に鉄鎖で繋がれていたものと違いはあれその無念さに変わりは無いでしょう。看守たちは監獄墓地に名前を記した石の墓標があります。亡くなった囚人たちも工事現場付近に埋葬された時には木製の墓標があったと言われています。残念なことにそれは長い時間の中で朽ち果ててしまいましたが、亡くなった囚人たちの名前は全て記録には残っています。(個人に関わることなので展示をするわけにはいかないのですが・・)
年表風に言えば『明治24年、北海道集治監網走分監による作業で網走旭川間の中央道路が開通、工事は多くの犠牲者を出した。』と一行で納まってしまう。しかし亡くなっていった200名を越す人たち、全て名前があり、家族もいた、いろいろな思い出がある「人格」を持つ人間たちです。関わった人間たちの生きていた『人生』全てを紡いでいったものが「歴史」なんですよね。
『監獄墓地』の小さな墓標に刻まれた少ない情報は、「俺たちのことを忘れるな!」とわたしたちに言っているような気がします。今回の資料館リニューアルの目玉『開拓の森劇場』は、中央道路工事に強く焦点をあてたものになります。亡くなった多くの魂が抱えていたドラマが伝わるような・・・彼らの無念を晴らすためにも、わかっている範囲で史実を公正に見るものに伝える力を持つ・・そんな展示になってくれることを関係者として願っています。
追記:今回、紹介した『網走監獄墓地』は、網走刑務所の敷地内にあり一般の立入が禁止されている場所です。数年前、心無いテレビ関係者が無断でここに深夜侵入、撮影し、おもしろおかしく『心霊スポット』として紹介をしました。以降、『北海道の心霊スポット』として雑誌などに紹介をされ、ふざけ半分に墓地内に侵入する人が多いと聞きます。
とても悲しいことです。亡くなった人たちは、みな名前を持った人格を持った人たちです。絶対にやめていただきたいと思います。
8月末、資料館リニューアルの展示取材を目的に網走刑務所敷地内にある「網走監獄墓地」を訪れました。
来年で創設以来120年になる網走刑務所。収監中になくなった収容者や殉職した職員たちを祀っている場所。通常は立ち入りが許可されていない場所です。刑務所側の特別な配慮で今回の取材がかないました。
刑務所本体からもかなり離れた場所ですので静かです。
周りの樹木が大きく育ち、鬱蒼とした空間。
幽玄・・と言う言葉が似合う場所ですね。
私(-_-;)が、ここを訪れるのも十数年ぶり。
若いころ(この博物館に勤めてまだ間もないころ、もう20年以上前か・・(-_-;)シミジミ)この墓地の存在を知り、何とか歴史史跡として保存する手段がないか若いなりにもがいてみた時期もあり・・・感慨深い場所でもあります。
で、写真の二つの大きな塔が、刑務所開設以来の物故受刑者の合葬碑。かつては引き取り手の無かった囚人たちの亡骸がこの手前側に土葬されていたのですが、後に火葬され塔の後ろ側に埋葬されているそうです。
この塔も、敷地内産出の軟石を彫刻し組み上げたもの。大正期の収容者による作業で立てられたものです。
自然と手を合わせたくなる・・・・
そして、私が今回の訪問でもう一度あいたいなと思っていたのが・・・
開設当初の時期に亡くなった(殉職した)職員たちの墓標。
大正時代以降に亡くなった殉職職員の墓標はそれなりの大きさがあるのですが、なぜかこの墓標はとても小さい。
多分、建立はずいぶん後の時期になってからのようです・・・(この墓地ができたのが大正時代ですので・・)
表には亡くなった職員の名前が刻まれています。
別な面には出身地。宮城県、山形県、岩手県など東北出身の士族が多い。
更に別な面には・・・
『北海道集治監網走分監看守奉職中明治廿四年(24年)十月九日死亡 行年廿二才(22才)』
そうです。あきらかにあの道路工事の期間に亡くなった職員。他にも同じ時期になくなったものの墓標がいくつかありました。
釧路から移動途中と思われる明治23年7月に亡くなった職員のものもあります。
そして、私が?と思ったのが亡くなった年齢。21才、23才、21才、24才・・・20代前半の若者たちばかりだったこと・・・
当時、北海道に次々と集治監を設置するため、宮城集治監で職員募集をしたそうです。
年齢から考えると自分たちの親の世代で戊辰戦争(明治維新)があり、旧幕府軍側となった東北列藩。賊軍出身者と扱われ、良い公職につく事がかなわなかった若者たちです。
監獄の看守、「牢役人」は江戸時代、不浄役人と蔑まされた職種です。それでも「役人」、しかも「腰に刀(サーベル)」ですから士族出身者の職として苦渋の選択、未開の荒野・北海道を目指したのでしょうね。
確かに犠牲になったのは囚人たちの方が多いのですが・・・
道路工事の現場で犠牲者が続出した最大の要因は、食糧補給路が伸びすぎたことにより現地の栄養状態が悪化、ビタミンB1が欠乏した糧食を与え続けたことによる脚気の蔓延。これは、囚人、看守ともに変わらない状況でした。
脚気は、育ち盛りの若者のほうが発症が多いとされています。若年職員が多く斃れたのもこれが原因でしょう。
故郷を遠く離れた北海道の山中で満足な医療も与えられず痛み苦しんでなくなっていった多くの若者たち。黒い看守の制服をきたもの、柿色の囚人服に鉄鎖で繋がれていたものと違いはあれその無念さに変わりは無いでしょう。看守たちは監獄墓地に名前を記した石の墓標があります。亡くなった囚人たちも工事現場付近に埋葬された時には木製の墓標があったと言われています。残念なことにそれは長い時間の中で朽ち果ててしまいましたが、亡くなった囚人たちの名前は全て記録には残っています。(個人に関わることなので展示をするわけにはいかないのですが・・)
年表風に言えば『明治24年、北海道集治監網走分監による作業で網走旭川間の中央道路が開通、工事は多くの犠牲者を出した。』と一行で納まってしまう。しかし亡くなっていった200名を越す人たち、全て名前があり、家族もいた、いろいろな思い出がある「人格」を持つ人間たちです。関わった人間たちの生きていた『人生』全てを紡いでいったものが「歴史」なんですよね。
『監獄墓地』の小さな墓標に刻まれた少ない情報は、「俺たちのことを忘れるな!」とわたしたちに言っているような気がします。今回の資料館リニューアルの目玉『開拓の森劇場』は、中央道路工事に強く焦点をあてたものになります。亡くなった多くの魂が抱えていたドラマが伝わるような・・・彼らの無念を晴らすためにも、わかっている範囲で史実を公正に見るものに伝える力を持つ・・そんな展示になってくれることを関係者として願っています。
追記:今回、紹介した『網走監獄墓地』は、網走刑務所の敷地内にあり一般の立入が禁止されている場所です。数年前、心無いテレビ関係者が無断でここに深夜侵入、撮影し、おもしろおかしく『心霊スポット』として紹介をしました。以降、『北海道の心霊スポット』として雑誌などに紹介をされ、ふざけ半分に墓地内に侵入する人が多いと聞きます。
とても悲しいことです。亡くなった人たちは、みな名前を持った人格を持った人たちです。絶対にやめていただきたいと思います。
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